正法眼蔵~第一巻~現成公案

date
Aug 8, 2022
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現成公案
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(本を読んだ瞬間はわかった気になるけど、文章にしてみるとうまく考えがまとまらない…)
正法眼蔵: 1巻目 現成公案〜諸法の仏法なる時節…〜仏教ってそもそもなんでしょうか? お葬式やって先祖崇拝するってこと? 仏様を拝めば、功徳が自分に降り注がれて救われるってこと?(南無阿弥陀仏…)
どうやら、これは本来の仏教じゃない(らしいです)
そもそも、仏様は神様じゃなくて、悟りを得た人。 つまり、私たちと同じ人間なんですね。 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と脳死でお経を唱えてたら、幸せになれるのか? 死んでから仏になる…極楽浄土に行ける…なんてこともない。
仏に向かって日々精進する、今を生きることこそが修行であり、仏の道を歩む・悟りを開くということ
こういった内容を本で読んだりして「仏教って、めっちゃ現実的な教えじゃん!」ってなりました。
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正法眼蔵とは、曹洞宗という宗派の始祖である道元が書いた仏教書です。 内容は、出家したお坊さん向けに書かれているため、仏教用語がたくさん出てきて、結構何言ってるかわかりません。
「道元さん、日本語でお願いします!」っていつも思いながら読んでます
いろんな解説書が出ており、複数読んでいるのですが、解釈に正解はないんだなと思って、私なりに解釈して読み進めています。 以下で、95巻ある正法眼蔵の最初の1巻目に当たる「現成公案」の冒頭について見てみます。
諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり
在家の人(お坊さんじゃないただの人)が出家したときというのは、まだまだいろんな雑念・執着・エゴなどを抱えています。 迷いと悟り、生と死、仏様と一般人みたいに、あらゆる事象・物ごとを区別して世界を認識しています。
例えば、「私は〇〇さんよりも劣っている・すぐれている」みたいに、自己と他己(他人)を比較・区別して、一喜一憂している。 お互い(自己と他己)の価値観・感情をぶつけ合いながら、擦り合わせながら生きている。
それってツライですよね。
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし
では、悟りを得た状態(無我の境地)になったらどのように世界を知覚するのか? そこには、迷いや悟り、仏様と一般人、生と死という区別をしない、 つまり、いろんな雑念・執着・エゴなどを捨て去り、すべてを平等に客観視して世界を捉えるようになる。
「私が人生の主人公だ」と思いながら生活してたとして、そう考えているうちは自分の主観で物ごとを捉えているわけですね。 何か色眼鏡でものを見ている。この人は嫌い・好き、何かを知らずしらず区別・差別している。 そういった感情を捨てる、いったん自分という存在すら捨て去る、忘却する、同化させる。 その上で、自分を客観視し、自己を確立させる…(と勝手にイメージしています)
例えば、何かに失敗したとしてクヨクヨしていたとしましょう。 クヨクヨして落ち込んでいる原因は、周りの評価を気にしているから? はたまた、周りに迷惑をかけたから?周りから馬鹿だと思われていると感じているから?
そういった感情をいったん捨てる。自己を客観視する。そうした上で、次どうするべきか、前向きに物ごとを考える。 この境地に至った状態が「万法ともにわれにあらざる時節」であり、失敗したかどうか・成功したかどうかなんてどうでもよくなる (まどひなく、さとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし) 失敗から何かを得て立ち上がる。今現在、どうすべきか考えることに集中できる。
現代風味に「正法眼蔵」を解釈してみるとこんな感じでしょうか? (正法眼蔵を哲学書として捉える人もいますが、私は日本最古の自己啓発本としても解釈できるんじゃないかとも思う)
 
 

© Naoto Imamachi 2022